
- 作者: 橋本陽介
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/04/21
- メディア: Kindle版
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二部構成で、前半は理論編、後半は分析編になっている。
理論編は、物語論の基本、物語の構造の種類をいろいろ教えてくれる。物語の構造とは、ロシアの昔話の抽象化から始まり、フランスのジュネットが大成した物語の分析の方法で、出来事を「どう語っているか」を細かく見ていくやりかただ。誰が語っているのか、いつのことを語っているのか、どこから語っているのかなどで分類されており、それぞれの語り方に名前がついている。物語が語り方によって分類可能であること、そもそも物語には「語り手」が存在するということを知らなかったので勉強になった。また、対象とするテキストの非常に細かい部分、たとえば指示語や時制などの文法的なとこから物語の構造が解説されているので、説得力があった。
分析編では、実際の小説や映画やアニメがどんな物語構造を持っていて、その構造が読者にどう作用するかを教えてくれる。これらの分析が妥当なのかは私にはよくわからなかった。例えば、"間を取ることによって叙情性を高めることができる。逆にテンポよく進んでいくと情感は高めにくい"(kindle位置2417)など、なぜ言い切れるんだろう?と思った。心情の問題なので印象による判断になるのは言うまでもなくしょうがないことなのか、この学問では読者の心情への効果を自明のものとして扱う慣習があるのか、示していないだけで実はデータがあるのか気になった。前半の理論編では各構造の要件がはっきりしていたので、後半の分析編で論理なしでいきなり断言されるようになったので戸惑った。物語を受容した時の気持ちの発生を実験で裏づけようとするのは大変そうだけど、そういう分野もあるのだろうか。
物語は出来事を語ることなので、物語論は歴史や新聞記事も対象とできるといい、たしかに報道などで語り方で印象操作することはよくやってそうだ。納得する一方で一般化しすぎでは?とも思った。語り方の理論はどんな文章表現にも当てはめられるけど、創作物などに限定した方が効果的な成果が得られるのでは?と思った。物語じゃなくて言葉一般の話になるので、どこまでも議論が発散してしまう気がする。
読んだ動機
私は全ての本は小説だという世界観で何十年も生きてきたのだが、小説を読むのが苦手で、本を読まないものはバカだという言葉は知っていたので、読書量が少ないことに劣等感があった。なんでこんな読みづらさを感じるんだろう?最近になって小説以外にも本があること、ある種の本は Wikipedia や匿名掲示板のレスやブログや twitter とかと同じテンションで読めることを知り、小説の読みづらさが一層不思議になった。
得たもの
この本を読んでわかったのは、私は次の点を読み取るのが苦手だと言うことだった。
- 物語は語りの内で時間が進んだり戻ったりする
- 語り手が物語内に存在し、語られた内容が物語中の事実であることを担保しない
新書とか、 Wikipedia のよく編集された記事では、すべてが過去形で、叙述された内容は事実であると(すくなくともその文書内では事実として扱うことが)確定しており、語り手=筆者なので、語り手の位置を意識することはあんまりない。事実と意見のみでかかれている。解釈の余地はできる限り排除されている。私は、情報の解釈が必要になると、その時点で投げ出したくなるようだ。
言葉の使い方についても学んだ。「構造」や「分析」という言葉が難しそうに見えていたが、思っていたより気軽に使えるようだ。ものごとを一部分でも抽象的に整理できたら、構造化した、と言っていいみたいだ。分析ということばが何を指しているのかは未だに消化できていない。